top of page

消える戦争の加害報道―犠牲者を2度殺さないために―

 6月の沖縄、8月の本土と、戦争関連の番組や記事が多くなる。戦後75年ともなると、もともと数少ない元日本兵による加害を証言する記事はさらに減り、当時子どもだった人の空襲体験が増える。とくに富山では8月2日未明の記憶が中心となる。戦火の中を逃げまどい家族や家を失ったのだから無理もない。被害体験であっても、現在のシリアなどでの空爆とリンクさせて書くことで未来へのメッセージとなるが、ここまで書いた記事や放送も少ない。取材する方に欠如するものがあるのではないか。戦争から学んだことを平和構築にどう生かすのか、過去と未来を切り結ぶことが現在の課題だ。

 8月24日の毎日新聞「祖父の最期の地、ルソン島で知った戦争の歴史」は、祖父が戦死したフィリピン・ルソン島を初めて訪ねて、日本軍は約50万人、フィリピン人は市街戦の巻き添え約10万人を含む100万人以上が犠牲になったことを知り、両国のつながりを作りたいとの言葉で締めている。かつて私はミャンマー・マンダレーに行き、日本兵の立派な仏塔が数多く立つ中に日本人以上に多く犠牲となったビルマ人の墓標を探したが、柱状のものが一つあるだけだった。こうした掘り下げがないと日本人が過去の戦争を反省しているとはいえないだろう。

 昨年から広島は「旧広島陸軍被服支廠」の建物の保存をめぐって揺れている。NNNドキュメントはこれを取り上げ、「煉瓦の記憶 広島・被爆建物は語る」を放送した。番組解説を概略すると、被服支廠は戦時中、軍の服や靴などの製造・管理する軍需工場で数千人が勤務した。広島はかつて軍都として栄え、それゆえに原爆投下目標地に選ばれた。世界で初めて原爆が投下され、ここで多くの被爆者たちが亡くなっていった。旧広島陸軍被服支廠とはそう意味をもつ。

 一方、戦争犯罪を中心とする軍事史を専門とする田中利幸さんは、被服廠自体の加害性の具体的なイメージに言及する。ここでつくられた軍服を身に着けた兵士たちは朝鮮や中国、アジア太平洋の各地で残虐行為を行った。ある兵士の日記は、軍服を着た日本兵を見ただけで怖くなって走り出した中国人が数多くいて、逃げる者は怪しいと見て射殺したと書き記している。被害者にとって軍服は日本軍の「恐怖の象徴」であった。これが広島の「旧被服支廠の保全」運動にはスッポリと欠けていると。被害者の痛みを想像し、その痛みを深く自分の心に内面化し犠牲者と痛みを共有することが「人間としての責任」だと書く。

 こうした深い省察なしに戦争関連番組が作られているのではないかと危惧することもある。それでは、戦争犠牲者を2度殺すことにならないか。

                        (8月オピニオン/文責:堀江節子)


※ NNN ドキュメントでは、被爆者の切明千枝子さん(90 歳)は旧被服支廠の建物は,「加害の歴史と被害の歴史と両方を語っているもの言わない証人だと思ってる」等と話した。



閲覧数:6回0件のコメント
bottom of page